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21世紀のメメント・モリ

Foucus

最期のひと時を共有するために

ラテン語で「メメント・モリ」という言葉は”死を忘れることなかれ”という意だが、その起源となる古代ローマでは「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬのだから。」というポジティブなニュアンスで用いられていたそうだ。

時代は変わって2018年。BBC Ideas が公開した‘Dying is not as bad as you think’という動画では、緩和医療のパイオニアとして知られるキャスリン・マニックス氏が死と向き合う重要性を語る。

「死は本来、人生における非常に穏やかなプロセスであり、あなたが思うほど恐れるものではない」と氏は語る。「人は歳を重ねるごとにだんだんと疲れていき、より多く眠るようになり、そして最終的には常に意識がない状態になるのです。」

動画の中で課題に挙げられているのは、不安や恐れ、過剰なコモンセンスといった様々な理由で、私たちが死についての会話をやめてしまったことだ。そのため病院で最期を迎えるシーンにおいても、家族と患者がお互いにどのような言葉をかけたらいいのか分からず、不安や悲しみ、絶望といった感情だけが漂う時間が流れてしまう。

では、私たちはどのように会話を始めることができるのか。マニックス氏は『THE IRISH TIMES』に会話を始めるための10のアプローチ方法を寄稿している。会話の誘い方から聞き方まで詳しく書かれているが、これらすべてに一貫しているのは「難しい」会話ではなく「思いやりのある」会話であるという姿勢だ。私たちは死という存在を共有するため、お互いが歩み寄った会話を始める必要がある。

'Dying is not as bad as you think' (BBC)

Opinion

エンディングノートを綴る

パンデミック下の数年。身近な人や自分自身の死に思いを巡らせる中で、死生感が大きく変わった方も多いのではないか。触れることの憚られていた「死」について話題だが、いまアメリカではこの分野に挑戦するスタートアップがある。

1つは終活サービスを運営するCake。ウェブ上でエンディングノートを作成できるサービスを提供している。利用者は自分が受けたい医療/法的・経済的な意志/葬儀プラン/死後にSNSやメールといった自分のデータをどう活用し、どのように記憶されたいかなど綴り、身近な人に共有することができる。もちろんその際の悩みはオンライン上で専門家に相談してマネージメントしてもらうことも可能だ。

同様にエンディングプランを提供するLantern。「家族に自分の意志を明快に伝える」「自分の願いを尊重してもらう」「記憶に留めてもらう」という点から終末期の計画をロードマップに残し、自分の最期を愛する家族や友人とどのように過ごし、また家族への負担を減らすかといったプラン提供する。死というイベントを共有し、いかに記憶に留めて語って残してもらうかは人生で最も重要なナラティブだ。

ある研究では自分自身の死について話すことは未来の不安を軽減し、ロードマップの明確化によって人間関係の改善に繋がると述べられる。コインの裏表のように、死について考えを深めることは「いまをどう生きるか」と一体なのだ。

Boom Time for Death Planning (The New York Times)

記憶の中で生き続ける

私たちは3度の死を経験する。1度目は息を引き取る日。2度目は埋葬 (火葬) される日。そして3度目にして最も恐ろしい死が、忘れられる日だ。こう語るのは、「死者の日」における故人の写真や花で飾り付けられた祭壇を製作するオフェリア・エスパルザ氏だ。彼女は、2017年に公開された死者の日をテーマにしたピクサー作品『Coco』(邦題はリメンバー・ミー) の製作において助言を求められた文化人の1人でもある。

「死者の日」とは、メキシコを起源とする死者に捧げる先住民の祭礼行事で、毎年10月から11月にかけて開催されている。オフェリア氏は、この根底にあるのは「死者を忘れないこと」だという。

しかし、現在では国境を越え大衆のものとなっており、オフェリア氏は根底が忘れられて単なるイベント化してしまうことを危惧しているという。

日本においても、時代とともに私たちの死生観は変化しており、この先新しい文化が入ってくることも考えられる。また、技術進歩に伴い、故人との新しい関わり方が誕生するかもしれない。とはいえ、どんな形式であっても大切なのは「故人を忘れない」「記憶の中で生き続ける」といった感情を持つことだ。私たちが忘れない限り最終的な死は訪れない。私自身、この文章をきっかけに、久しぶりに父のことを思い出している。

‘The most terrible death of all is to be forgotten’: The artist who made Day of the Dead matter (Los Angeles Times)

死者との対話と法整備

死者を「蘇らせる」テクノロジー。随分SFじみて聞こえるが、遠い未来の話、というわけでもないらしい。

急逝したポール・ウォーカーやキャリー・フィッシャーが、再びスクリーンに姿を現し、美空ひばりを模したAIは、紅白で新曲を熱唱する。こと、エンターテイメントの世界において、同様の事例は枚挙にいとまがない。

しかし、このような試みは、ファンの批判に晒されることも少なくない。たとえば、「Back To Black」などで知られるエイミー・ワインハウスのホログラムツアーは、搾取的との声を受け、無期延期になっている。

法的・権利的な障壁を乗り越えても、倫理的に受け入れられるかどうかは、また別の問題だ。

デジタル技術による「復活」の対象は何も、有名人だけではない。マイクロソフトが、昨年12月に特許を取得した技術は、特定人物の画像や音声データ、SNS投稿などから対話型チャットボットを開発するというものだ。

同社の担当マネージャーは製品化を否定しているが、理論上は死者(を再現したAI)との対話も可能になるとあって、大きな注目を集めている。

今世紀末までFacebookが存続した場合、49億の故人ユーザーを抱えることになる、という予測がある中、「死後も残り続けるデータの扱い」というテーマはますます身近なものになっていくだろう。

最近では、死後に自分のデータをどう扱うか意思表示できるプラットフォーム「D.E.A.D.(Digital Employment After Death)」も話題になったが、法的な枠組みはまだまだ追いついていない印象だ。

アメリカの連邦法も、GDPR(EU一般データ保護規則)も死後のデータプライバシーについては明確に定めていない

私たち自身が、自身の倫理観に基づく、データの扱い方を考えていくだけでなく、法整備も求められていくだろう。

What Should Happen to Our Data When We Die? (The New York Times)